麗らかな春で在つたなら。 其れだけが、自分に取つての幸ひだと思へたでしやう。 望んでゐたのは麗らかな春でした。 「人間はみぃんな可哀相だ」 己よりも一回りは大きひ背中に向かつて投げ掛けました。 縁側に腰掛けた男は沈黙を抱へた侭、うんともすんとも云はなひので、己はエイ、とばかりに枕元に山崎が用意して呉れた暇潰しの本を投げ付けてみたのです。 本が綺麗に弧を描く様は何だか凄く、己は其に魅入つて居りました。 ゆつくりと本の落下地点を追つています。 其の侭男は避ける事もしなひものだから、頭に本の角を真面に喰らつて仕舞ひました。
「土方さんが可哀相な事になった」
己には其れが可笑しくて堪らなかつたので、布団の中で毛布に包まつてひくひくと芋虫か何かのやうに痙攣して居ましたが、男は此方に一瞥呉れただけでした。
「なに何時までも怒ってんですかィ」
だんまりは無いでしやうや、と己は詰まらなさうに聞こへるやう天井を睨んで吐き出します。いゝヘ、実際の所本当に詰まらなかつたのです。会話とは一人ぢや成り立たぬものでしやう。己までも黙つて仕舞ふと、じわじわと虫の鳴く音だけ虚しく響きました。彼が松本先生に何か云はれたのだと云ふ事と其れが良くない事で然も其れは己にかんする事だと云ふ事もすつかり分つてゐました。いけません、彼の怒りの矛先は何時だつて松本先生に、向ひてゐる。いけません、彼の怒りの矛先は何時だつて己の境遇に、向ひてゐる。
「アンタがそんなに怒らなくったって、人間は平等に可哀想なんでさァ」
己が紡ひで行く言葉を男はしづかに聞ひてゐるやうで在りました。麗かな春が戻つて来れば良ひと思ひました、春は好きでした。寒ひ冬や暑ひ夏と違つて己に優しひので。咳だつて彼のやうに暖かな昼間には肺の奥底でじつとしてゐて呉れるのですから。夏の暑さは、此の体には何だか妙に疲れるので好きでは在りません。また春が来れば良ひ、春は好きです。其れだから、春が来るまではきちんと生きて、さうして春に死ねたら幸せだと思つて仕舞ふことはやはり仕方がなひことでした。こくり、とすこうし己は首を傾げて男の背に語りかけます。
「可哀想でしょ?何たって人は、自分がいつか死ぬことを知ってるんですから」
昨晩受けた手の傷をちら、と見ます。其れは本当に小さなかすり傷です。他の隊士が受けた物と比べたら本当に何でも無いやうな物でした。其れが酷く申し訳なひ事のやうに思へます。込み上げて来る咳を己は何とか飲み下しました。
其の時、にやあ、と頃合を見計らつてか鳴き声がやつて来て、其れが何時からだつたか住み着くやうに為つて仕舞つた猫だと分るのに己は時間が掛かりました。猫は庭の大きな石の上で日の光に眼を細めて、其れでも尚ほ此方を見てゐます。 「ほら、そこの猫なんか実にシンプルに生きてまさァ。人間の方が知恵があるってのに、無駄ばかりだ。猫は無駄な事は知らない、いつか死ぬ事だって知らないに違いない」
少しでも害が及ばぬやう、しづかに息を吐いて、布団を少しだけ持ち上げます。猫を見遣るととことこ、と猫は我が物顔で畳を横切りながら、此方へ向かつて来るところでした。さうして、すつかり低位置と為つたこの布団の中へするりと潜り込んで来るのです。
「土方さん、いい加減怒るのやめたらどうです。理不尽はお互い様でしょうが」
誰に、とは云ひません。其れくらひ許されます。 何が、とは云ひません。お互い嫌に為るくらひ分りきつてゐます。
「あんたもいつか死ぬし、俺もいつか死ぬ。もうそれでいいじゃねえですか」
遠い話ぢやない、きつと何方も。向かふ百年の間には確実に何方も果たされる御話ですから。
「あ、先に俺が居なくなっても、」
其処まで己が話すと、彼は耐へられなひとばかりにぴしやり、障子を閉めて居なくなつて仕舞ひました。荒々しく床を踏む音が遠ざかります。
「あーあ、フラれちゃったぜィ」
黒猫に語りかけました。 彼は(いゝえ、彼女でしやうか)三角の形の綺麗な耳をぴくりと揺らしただけでした。人間は馬鹿らしひとでも厭きれてゐるのでしやうか。 苦笑いが零れるのはまう、隠せませんでした。 是の素敵な生き物もきつと己と同じで春が好きなのだ。うつらうつらと胸の中で眠りに落ちやうとする真つ黒な毛玉を見てさう直感するのです。先ほど蝉の鳴く樹の下に居た彼奴は何とも辛さうで寂しさうでしたから。さうです、同族愛と言う奴です。
(だから、先に俺が居なくなってもこいつに暖かな寝床と食い物だけは与え続けて欲しい、と)
彼奴は死を知りません。 実にシンプルに!アヽ、実に素敵に生きてゐるのです! だのに、彼奴までもいつか死ぬことを悟ってしまったら、まう、それこそ世の中救われなひと思ひませんか。
だうかだうか、此の子だけは死の影から遠ざけてあげて欲しいと願つて仕舞ふのは身勝手でしやうか。
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