何時までも逃げられると思ったら大間違いだ!
数学の次に日直が嫌いだ。だって出席番号順の男女ペアでやらなければなのだもの。「お」の次は運悪く「か」だ。日本語ってむかつく。
毎度毎度の帰りのホームルームのあと、わたしは机に伏した侭諦め悪く動かない。少しでもたくさんのあいだ、お別れのための言葉が聞きたい。
口々に別れの挨拶を口にする級友たち、皆がみんな「サヨウナラ神楽ちゃん」と同じことを言う。わたしはニッコリ笑ってばいばい、と一人ひとりに返す。教室中「サヨウナラ神楽ちゃん」だらけになる、それがわたしはとても心地良い。下校までしばし離れなければならないわたしの名前だ。かぐら、かぐら。もう明日まで誰も呼ばない。皆が帰って仕舞ってそれでもまだ余韻に浸るようにぼう、と窓の外を見ていた。まだだ、まだわたしは「神楽」でいたい。じりじり、と陽が揺れながら落ちていく。いま、何時なんだろうか。くわんくわん、チャイムがなったが夕日にうっとりと目を閉じたわたしにはわからなかった。チャイムがこだましているのと、グラウンドの掛け声と、吹奏楽部の練習の音が入り交じって奇妙なハーモニーを奏でている。ゆうらり、目を開けると勢いよく教室のドアが開いて日誌を抱えた人物が物思いに耽るわたしの顔に影を作ったところだった。日誌で軽く頭を叩かれた。
「寝てんの」
「目ェ開けた侭寝る奴なんていねーヨ起きてるヨ」
「ふうん」
ぺたぺた、と遠ざかる音がして。
「ん」
真白な手が立て掛けてあった箒を突き出す。 ゆっくり、机にくっつけた侭だった顎を上げると蜂蜜のような髪色をした男は口に棒つきキャンディをくわえていた。鮮やかなそれは、夕日によく似合う葡萄色をしていた。
「ほれチャイナ、さっさとやって帰るぜィ」
飴をくわえた口で、もごもご、と男は言った。誰もいない教室。アア空しいかな、「おまえ」と「チャイナ」だけ。サヨウナラ沖田くん、サヨウナラ神楽ちゃん。この瞬間から、おまえは沖田でなくなるのだし、わたしは神楽でなくなる。
「右半分、お前な」
紫のキャンディで、ぴっ、と教室を縦半分に区切るような仕種をしてみせて男はさっさと黒板の下、教卓の辺りに移動した。少しでも離れていたくて、わたしは掲示板の辺りから掃き始める。
「おまえ、右選んだからにはちゃんと先生の机の下も掃けヨ」
むっつり、とわたしはふて腐れながら返せば、へいへい、と気のぬけたいらえが聞こえた。
チャイナ、とこの男はわたしを呼ぶ。勿論、わたしはそんなふざけた名前ではない。おまえ、とわたしはこの男を呼ぶ。同じく、この男だってそんな不名誉な名前でないのだ。而して、名前とは記号であり、個人オンリーを示すものであるのにわたしら二人の間にはそれが成り立たない。わたしたち自身が成り立たない。だからわたしはこの時間が嫌いである。途方も無く、不安定なこの時間が。
「お前、あんま喋らねぇな日直んとき」
男は唐突に言った。下手な想像を射抜くような、この男の声は今そんな力がある。気付いているだろうか、おまえに話し掛けられた瞬間肩をびくつかせたわたしを。
「喋るとお腹空くダロ」
ごまかすみたいに俯いた侭笑った。
「常備薬はどうした、ほれ、酢昆布」
「あんなの放課後には無くなるアル」
ふう、と溜め息をつきながら集めたゴミをちりとりで掬い上げる。夕方の教室ではゴミだって煌く。
おまえと居るとほら、なんでもないことがわたしは寂しい。これはちりとりで、これは箒でしょう。あれは黒板だし、それらは机だ。この場で名前を持たないのはわたしらだけ。どうしようもなく寂しい、と思った。空腹のようなそんな感触が首筋に墜ちる。寂しいだろう。相手は居るのに呼ぶべき名はなくて、わたしだって居るのに呼んでもらうべき名もないことは。わたしは、おまえの、さみしい、と言う声が聞きたかった。おまえの声で呼ぶわたしの名前が聞きたいのだ。
「おまえはさみしくないカ」
ちりとりを渡しながら、つぶやいた。心臓を隠しているセーラーの上から羽織ったベージュのカーディガン。確かに腕には此処からの血液が熱く送り出されてはいるのにその裾から覗いていた指の第一関節が酷く頼りない。ああ、そういえば、この男が着ているセーターも長いなあ、とどうでもいいことを考えて、褐色の目が瞬くのを後悔しながら見た。
「なにが」
きょろ、と形のよいアーモンドのまなこがわたしを見つめ返している。ほら、答えはすぐそこ。それでも、詰め寄ることはできないのだ。
「、お腹」
何かが決壊してしまうのが怖くてぽつん、と付け加えたのは酷く弱い言葉だった。それに、男はわざと悲しそうな顔を作ってちりとりを受け取る。
「寂しいぜィ、ポケットのキャンディ最後の一個になっちまったしー」
「何味?」
「ピンクっぽかったから、桃とかじゃね?」
「へえ」
わたしも沖田ももう何にも言わなかった。話すべき言葉がなかった。
今日の授業で習ったばかりのお話だ。作っていく端から壊れてゆく建物があるのだそうだ。壊れたところを直してもまた他の箇所が崩れてしまうので、けして建設が進む事はない。それでも工事は止まない。教師が説明している傍ら、なんと不毛なのだろう、と珍しく開いた美術資料集を眺めていた。果たしてその行為を不毛だと思ったのだか、その建物の存在自体を不毛だと思ったのだか、もう忘れてしまったけど。それでも、まるで、さっきの会話のようだと思った。わたしの願ってることと言うのはそういうものなんじゃないか、と思った。なんだか、とても綺麗な名前の建物だったと記憶している。
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