| 連れ立って職員室への長い、長い廊下を渡っていた、日誌を携えて。蜂蜜頭は何も言わない。わたしだって、言葉を持っていなかった。あんまり新しくない学校、だけどリノリウムの床は夕日の照り返しで酷く美しかった。 「しつれいしまーす」 がらり、とドアを開けて入った職員室はあの、特有のにおいがする。コーヒーと煙草と、あとはなんか加齢臭。そんな中、自分の机に突っ伏して惰眠を貪る担任はびっくりするほどその光景に埋もれていた。わたしらといえば、寒い教室を掃除してきたのに。安らかに眠りこける姿に無償に腹が立った。 「…蹴りたい背中」 「ぐえ!」 小さく横の男がつぶやいた瞬間、わたしは白髪頭の背中に綺麗に上靴のスタンプを押していた。ぐりぐり、と重力をかけ続ける。 「何コレ!?虐待?!」 「さっさと日誌にサインしろヨこの給料泥棒が」 (年上は敬えって習わなかったのー)(いや、むしろアンタこそ生徒は可愛がれって学校で習わなかったんですかィ先生)(俺等の時は生徒には厳しく当たれと習いました!うわージェネレーションギャップだわなに、最近じゃそういうの習うわけ、先生知らなかったなー、でもな生徒可愛がりすぎるとホラ駄目じゃん、可愛い子には旅をさせよって言うじゃん)(おお、アンタやっぱ教師でさァ)(だろ?)(うん、立派な反面教師)(コルァ!もっぺん言ってみろォォ!!)(アンタのクラスからは俺等みてえな立派な生徒が巣立ちまさァ) 「ねぇ銀ちゃん、今日美術の授業で習った建物、あれ何だっけ」 「神楽ちゃん、俺は君のクラスメイトじゃなくて君の担任でしかも国語教諭なんだけど。そして今すぐその足退けろ」 ぶつぶつ、言いながら日誌を受け取って、 「はいはい、確かに受け取ったから。沖田くんも神楽も、寄り道せずに帰りなさいね」 背中に23.5センチのスタンプをくっつけた侭、こめかみをひくつかせた反面教師はわたしらを職員室から追い出した。大人は理不尽だねェ、と男は愉快そうにぼやいて昇降口に向かって歩き始めた。そうだろうか、銀ちゃんはちゃんと名前をよんだじゃあないか。わたしもゆっくりとだが彼に倣って歩き出す。確実にその背を追った。 「ねえ」 「ああ?」 「今日の美術の建物の名前なんだっけ?」 「またかィ。知らね、俺寝てたし」 くあ、とあくびをかみ殺しながら蜂蜜頭は言う。そういえばそうだったなあ、と今更ながらに思った。あんな退屈な授業、聞いてる方が珍しいんだから。 「建物の名前とか、東京タワーしか思いつかねえ」 「わたし、むしろあれネ、ピラミッド」 靴箱越しに投げかける。とんとん、と靴の爪先を鳴らしてローファーを履く。 「あ、サクラダモンガイ?」 「の変」 「何ヨそれ」 「知らねェ、お前こそなんでィ」 「さっきの建物な、なんかそんな感じな名前だったアル」 「嘘つけゴリ沢」 「煩いヨ佐渡」 昇降口から一歩踏み出せばそこは橙色が支配する世界だ。悲しいのもうれしいのも一緒くたに塗り固める暖色。せっかくのベージュのカーデも白のセーターも橙色の前では平伏して仕舞う。 校門の前でゆうらり、立ち止まる。確かに教室の中では蜂蜜色だったその髪は深みを増して、夕日をはじき返している。 寒そうにポケットに手を突っ込んだ途端、あ、と声を上げた男は悠々と伸びをしながら言った。 「チャイナー、これやるわ」 男がスラックスのポケットから差し出したのは、棒つきキャンディだった。 「そんなに気にかけてやるんだったら、さっさと家帰って調べてやれ、これやっから」 「ねえところでおまえは、わたしの名前知ってるアルカ」 自然な流れだった。あんまりにナチュラルだったのでわたしも男も一瞬フリーズしたのかもしれなかった。何を言ったのか男よりも先に理解してしまったわたしはああ仕舞った、と唇を噛んで男に構わず、差し出された桃色の棒つきキャンディをむしりとる様に受け取る。男は暫く思案していたが、 「そっくりそのままその台詞返してやるぜィ、知らんなら調べとけエセチャイナ」 にやり、と言う表現がかちり当て嵌まるように男は笑って、ひらひら、と左手を振った。何だか愉快そうなのがムカついた。 わたしは右へ、こいつは左へ。 「お前こそナこの小串め。じゃあな、おさらばヨ」 「おう」 いまは夕日に染まった真っ白いやや大きめのセーターの背中が少しずつ遠くなっていく。肩に引っ掛かっただけのぺたんこの学生かばん、だらし無く巻かれた黒いマフラー、ずりずりと擦り足気味の。来月もわたしは此処で其れらを見つめているだろう。30分もわたしを悩ませるたった三文字を喉の奥に張り付かせたまま。 何かを壊そうとするそれは、確かに、「おまえ」でもなければ「きさま」でもなく、「あんた」でもないのだ。 |
| 永遠待ちの僕らへ。 知っているのだ、ベクトルの向きは同じだって。 |