ぱちん、と鞭打つ音が耳元で聞こへて己はあれ、と目を見張る。さつきまで自分は確かに見知らぬ誰かと世間話に花を咲かせてゐた筈で其れからだうしたのだつたか、と頭を抱へる。在の誰かが差し出してくれたお茶は確かアツサムだつた、沢山の洋菓子が自分の目の前には積まれてゐた。だうしてあの花柄のカツプの縁が欠けてゐたのだらうとか、手に持つてゐたクランペツトは何処へいつて仕舞つたのか(折角美味しさうだつたのに!)とか色々考へる事は在つた筈だが、其れは最早己の手の届く範囲ではだうしやうも無ひ事なのだと漠然と悟る。今クランペツトの代はりに右手が握り締めてゐたのは、テレビのリモコンだつた。縫ひ止められたやうにふかふかのカアペツトに寝転んでゐた。きつとさつきのぱちんは、己がカアペツトに打ち付けられた音なのだ、と一人ごちる。ふと視線を上げた付けつぱなしのテレビからはびかびか眩しひ映像が目に痛かつた。


『世界はまう直ぐ終はります、全世界の皆様さやうなら、世界はまう直ぐ終はりま…』


同じ文句が妙に落ち着き払つたアナウンサーの口から流れつぱなしだ。訳が解らない。横になつた侭、黒つぽいカーテンをそつと引ひた。腕時計が6時を指してゐたから、夕方だらうが朝だらうが明るひに違ひなひ、と思つたのだつた。とんと実感は沸かぬが、この部屋と己には取り敢へず太陽の光りが必要だ。しかし、ソオダ水を期待して引ひたカアテンからみた空は酷く赤かった。ルビヰだ。地上は真つ赤に燃へてゐるのだ。赤ひ地面の色が空に反射して、見事な極彩色。あヽさういうことか、愈愈世界が終はると云う訳だ。真つ白な壁紙が外の赤を吸つて真つ赤に染まつた。夕方なのだか、朝方なのだかまう検討もつかぬ。気味が悪く為つたが、赤々としてゐる空から目を反らす事が出来なひのだつた。窓ガラスに這はせた手がじつとりと汗ばむ。







痛みに降参    今日、お前が夢に出てきたよ。







「何をしてるんですか」


後ろを振り向くと、見慣れた華奢な少年が居た。いつものやうに穏やかな微笑をたたへてゐる。


「飛行機が墜ちてくみたいに世界も落ちてく最中なんさ。だから一人でどうしようもないってことを悟ってた」 「赤い、そら」 「おまえも真っ赤」「あなたの髪だけは変わらないですね」「もともと赤いからね」


さうか、己の髪の色で世界は終はつて逝くらしひ。何ださう思へるならば想像してゐたより悪く無ひぢやあなひか、世界の終焉とやら。肩を竦めて少しだけ微笑ふ。


「何にも持って生まれて来れなかった代わりに、人間は沢山を生きている時間で持つことが出来て、そして最後は何も持っていけないまま夢が終わるんです。けして次回になんか持ち越せないまま。それでも自分の体にまとわりついてた糸くず程度の縁なら持っていけたっていいのになあ、と僕は思うんですよ」


不意に、彼の薄い唇から零れ出した言葉は己にはとんと理解出来ぬものであつたが、それが毀れ出している最中の世界唯一の真理のやうに聞こへて、問ひかける彼に向かつて思はず肯ひて居たのだつた。


「それでね、僕は、あなたの、その糸くずの一つになれたらなあ、と思って此処にいるわけなんです」


につこり、と彼は晴れやかに笑ふ。


「それは嬉しいさね」


彼に笑ひかける。己からは只其れしか云へ無かつたがやつと心から笑へたやうな気がしてゐた。己は静かにカアペツトに腰を下ろした。少年を見上げると、ふわり、と笑つて彼も隣に腰を沈めた。そ、と彼が己の手に指を絡める。その手は思つてゐたよりも随分細かつた。


「細いよね、ちゃんと飯食ってるのに」 「燃費の悪い車みたいですね、僕」


くすくす、と高らかな笑ひ声が耳に心地良ひ。


「あのさあ」 「はい」 「俺は今思うわけ」 「何を」 「聞きたい」 「そりゃあもちろん」 「あのね、最後にお前が此処に来てくれて良かった。お前がいてほんとよかった」 「どういたしまして」


アレンは満足さうに笑った。


「じゃなきゃ俺糸くず一つ持ってけ無いまんまさみしーく死んでってたさー」


死ぬ間際に何故だかとても満足して、ごろり、と横たはつてげらげら笑つた。アヽ斯うして世界は終焉へ走つてゐる。ががががが、テレビが妙な砂嵐を見せてぷつん、と事切れた。


「そろそろですね」


アレンは窓の外を見乍ら云ふ。


「目を、閉じて。そう…、ゆっくり……ゆつくり」


耳から聞こへてくる彼の声が少しずつ古ひ映画のやうに雑音混じりになつて行く。思はず瞼を持ち上げかけたが、その上から彼の手がそ、と降りてくる。


「復た、会ひましやう。大丈夫」


己の不安を汲み取つたのか、いつも以上に彼の声が優しく為つた。お前が大丈夫だ、って言った時ちっとも大丈夫だった事なんて無かったよ、と己は微笑ふ。


「また会うってさあ、来世って話?」


さつきから蟠つてゐた言葉をやつと投げかける。瞼の裏までは真つ赤な空も地上も侵食してこなかつた。


「さあ。貴方がさう呼ぶのなら来世みたひなものでしやうか。けれど貴方が目を開けたなら、きつときつと復た会へます」


ほらまう直ぐですまう直ぐ夢が終わります、とアレンが耳元で囁ひた。と、其の時掴んでゐた彼の右手の感触がふわ、と消へて失くなる。あヽきつと一足先に彼は来世に行つて仕舞つたのだと悟る。己は始めのやうにまた、独りカアペツトに俯すばかりだつた。まなこを瞑つた侭、手足を丸めて。彼の云ふ「夢」が何なのかはあまり考へなひ事にした。もし己の考へている通りで在つたならほつとするやら物寂しひやらで泣きだしさうだつたからだ。 臨終(だつて彼は旅立つて仕舞つた!)の時の彼がどのやうな顔をしてゐたのか、目をつむつてゐた己は識らなひ。けれども彼は微笑つて居たのだ。それだけは確かな事だと知つてゐた。彼のことを考へてゐたなら、世界が失くなつて仕舞ふと云ふのにたヾたヾ己の鼓動は只管穏やかなのだつた。ぶつん、と意識が切れた。其の侭己は死んでしまつたのだ。世界にさやうなら。死因は解らぬが、きつと己は幸福のうちに死んだのだと思ふ。何処も痛くなど無かつたのだから。




穏やかだ。でも鼻の奥がきゅう、と痛いのが自分でも解った。瞼を開けないまま目覚ましがわりの携帯の着信をききながら、一人微笑う。ああ、きっと夢が終わったから俺は泣いてるんだ。これは確かな気がした。 ご丁寧にも、こちらが出るまで止まないであろう毎朝のモーニングコール。 一体どんな顔をして、今日の講義にのぞめば良いかな。 彼の言った通りだ。夢があけて、そして、そして一番に。くつくつ。 寝返りをうって枕に顔を埋めて小さく笑う。そして、いつもより少しだけ緩慢な動き、手探りで通話ボタンを押した。


「もしもし、あのさあ、今日、」










2006/5/1
ラビとアレン現代パロ (夢のあとには)