音を立てないように、こっそり鍵をまわす。開いたドアの隙間に猫のように身体を滑り込ませると、リビングへの扉が半開きになっていて青白い光りがもれているのがわかる。あ、やっぱりまたやってるな、と溜め息が出る。ひんやりとした冷気が玄関まで流れていて、不健康極まりない。今日は何か暖かいものを作ってあげたほうがいいかもしれない。ひたひた廊下を歩きながら一人ごちた。そう、とリビングに足を踏み入れるとこちらに背を向けて、アレンが無心になってパソコンにかじりついていた。真白い頭は微動だにせず、指だけが規則正しく動いている。毎回毎回注意しても、電気がついていたためしは無い。それでも視力はいいのだから不思議だ。
溜め息を飲み込んで音もなく、その背後から、がばり、と片手で瞼を塞いでやった。ぴた、とアレンは動きを止める。さながら、螺旋の切れた人形のようだ。


「ああ。困った」


たっぷり10秒固まってからかたかた、とキーボードを叩くのを再開して呆然と口を開いた。
何だそれ。第一声がこれか。駄目押しに頭頂部にあごを押し付けてやる。


「困った」


目隠しされたままの後ろ手で、ペットボトルを探り当てるとそれを口に持ってゆく。薄い咽喉仏を揺らして中身を飲み干したアレンはもう一度言った。中途半端な丈のボトムから覗く脚は緩慢に投げ出されているが、パソコンから手を離す気配はない。つらつらよどみない英文の群れ、ブラインドタッチマスターめ。


「はあ、困った?」


訪ね返すと、ことり、静かに首が上下した。
真っ暗闇の中で発光を続ける液晶画面、その回りには散乱した資料と印刷損じの紙。
印刷紙を踏み付けたまま少しだけ頭を抱えた。困ったも何も、今朝片付けたばかりでこの散らかりようはなんだ、と怒鳴りつけたいのを何とかこらえる。
彼はレポートの期日が迫ると缶詰になる。そしておまけに、なんと言うか人間として大層駄目に為る。まあ、たった二日、三日まともな生活をしなくなる、と言うだけの話なのだが。若干自分はトラウマに為っている。
以前、この時期に部屋を訪れた時のことだ。まず部屋の中は今以上に酷かった。脱ぎ散らかされた服と、本の山と出来上がったレポート60枚、その下書き数十枚、失敗作数十枚、ジャンクフードの空き箱、これらに囲まれて少年は大量のカップめんをすすっていた。こんにちは、とタオルケットから覗く濃い隈を作った赤い目で笑ったアレン(寒いなら冷房切れよ、とまず叫んだ)。あの悲惨さは忘れない。
あれ以来、この時期にはこの部屋に通ってあげる。まともな人間生活の提供に。話はとにかく何だか困っているらしい。資料不足だろうか、それともインク切れか、食糧か、まさか部屋が汚れているとかじゃないだろう。出来る範囲で協力してあげなければ、と、ちょっと迷って思い当たる節から彼の方へ橋をかけてゆく。


「それは今回の課題の話?」

「いいえ、今回はシェイクスピアにおける人格論です。ラビ、嫌いでしょ」


シェイクスピア否定派には頼りませんよ、と笑った口元は窓から覗く三日月と同じ形をしている。
ぱちぱち、と指は未だ走る。手のひらで伏せた瞼の下、眼球が動いているのもわかった。
確かにシェイクスピアなら自分より彼の方が良いレポートを書く。嗜好は出来栄えに比例するもんだ。


「食糧?」

「それもあるけど、一番困ったのは、あなた」

「俺?」

「貴方のする一挙一動に僕は中々驚かなくなりました、困った困った」


ゆらゆらと背が揺れている。頭に顎を乗っけているので振動で笑っているのがわかった。そういえば最初の方は膝かっくんだけで死にそうな声出してたな、とぼんやり思い出した。
ぎゅう、と腹の前で腕を組めば、キーを叩くのを一瞬止めて慰めるように撫でてくれる。


「前は僕が帰ってきたらこの部屋にラビが居ただけでびっくりしてたのに最近じゃ毎日みたいに鍵あけて入ってくる」

「合鍵くれたのお前じゃん」

「いや、ほんとはちょっと冗談だったんですよ。まさか本当に使うとは思ってなかったんで」

「ひどい!」


あはは、とアレンは場違いにも朗らかに笑った。ふ、と目に付いた青白い綺麗な形の指の左手を片手でとった。右手はまだ動いている。左手の指、少しだけ爪が伸びていた。今日、寝ているあいだにでもこっそり切ってあげよう。


「俺もかも」

「本当?」

「うん、お前に中々驚かなくなった」


くくく、と笑う声とキーボードが連動した。


「毎度毎度、莫大なレポートを限界まで貯めることにも全然驚かなくなった」

「一ヶ月で仕上げなきゃいけない物なら、僕は29日遊んで2日徹夜して頑張りたい派なので」

「うん、だからちゃんと来る前に栄養ドリンクその他もろもろ買ってきたさ」


がさり、と持ってきた袋を持ち上げる。彼はわあ、と声を上げて手を鳴らした。キーボードから手が離れるのはこんなときだけだ。


「ラビ、偉い」

「もっと褒めてー」

「離れてくれたらもっと褒めてあげますよ」

「ほらねー絶対言うと思ったさ」


期待を忘れた関係なのかもしれない、まるで同じ生き物になってしまったような錯覚だとも言えなくもない。
関係性とは分化して、複雑化して、それでも最後は落ち着くように出来ている。いいじゃないか、それでもこの子を愛してるんだから。
ぎゅう、ときつめに抱きしめた。痛いですよ、と呟いた口元は目が見えないだけなんだか卑猥だ。こちらの複雑な感情をなだめるようにかちかちとキーを弾く音が響いていた。
冷房で若干冷えた身体が心地よくて(いうならそれ以外の理由もあった)、離れがたかったが夜食を作ってあげないとこの少年はきっと冗談でなく死んでしまうことを思い出す。


「じゃあ美味しいご飯作れたら褒めて」

「了解です」


手を放してやると目の周りがほんのり赤くなっていて少し笑えた。色白だから目立つ。ごはん、と聞いてアレンが息巻いている。妙な節のついた歌を歌いながら先ほどの数倍の速さでレポートが仕上がっていく。もしかしたら、食事が出来るころにはもうレポートも完成しているかもしれない。
頑張って、の意を込めて、先ほどまで密着していた頭を一つ撫でてキッチンへ向かおうとすると呼び止められた。
珍しい事もある。くるり、振り向くと回転椅子の上で体育座りをしたアレンが此方を見ていた。やたらまっすぐな目はゆらりゆらり揺らいでいる。ゆっくり、口を開いた。


「ねえ、良いんですよね、僕ら」

「何が?」


すばらしくすっとぼけて見せれば、何がとは正しく言えないけど、とアレンが首をかしげた。自分でもよくわかっていないのだろう。不安げな顔が液晶の光りのもと、青白く浮かんでいる。
参った。それは予想外だ。


「良いよ」


にっこり笑ってやると、ううん、だかああ、だか不明瞭な音で唸りながら、ラビがそういうなら、と結局パソコンへ方向転換をした。
大人の不安は子どもに伝播してしまったらしい。











サ ン ト ワ マ ミ ー

いとしい人よ、あなたなしじゃあ!












2007/7/22
ラビとアレン (僕等はたまにとても悲しいことを考えている)